2018年11月11日 橋本忍生誕100年記念シネマシナリオフェスティバル 基調講演 全編

2019年04月07日

平成30年11月11日 橋本忍生誕100年記念シネマシナリオフェスティバル
脚本家中島丈博氏による基調講演「追い詰められて鬼となれ」の内容を前編公開致します。
講師:中島丈博氏(脚本家)
場所:市川町文化センターひまわりホール(兵庫県市川町)

どうも皆さん中島丈博と申します。丈博を音読みにしてジョウハク、という風にも、呼ばれております。
本日は、この橋本先生、この妙ある脚本家を育んだ市川町、この町で、このようにお話しさせていただけるのを大変光栄だと思って、感謝しております。題名が、「追い詰められて鬼となれ」。ちょっと何を言っているのか分からないのだけど、それはこの後で説明いたしますが。
私が『砂の器』をまだ見ていない、というと、パネルディスカッションに出る人たちが、ええーっとびっくりするんですよね。弟子のくせに、あの名作を見ていないのかって。みんなが言うもんですから、ここでお話する前に、観とかんといかんなと思って、2日前にTSUTAYAから、DVDを借りて来て観たんですよ。かの名作、『砂の器』。大体今まで先生の作品を観ると『真昼の暗黒』にしろ、『切腹』にしろ、『張り込み』にしろ、あまりにも完璧な出来栄えで、私も脚本家の端くれとして、ここまでやられたらもう、敵わないと。素晴らしいを通り越して呆れるぐらい、完璧な作品なんで、ノックアウトされるんですね。だから今回も『砂の器』観るの辛いな、またノックアウトか、と思って、それで、見るのをだんだん延ばしているうちに、観ないまま来ちゃったんですが、なんて言いますか、やっと2日前に観ました。素晴らしい(笑)。またノックアウト。そりゃ何しろ名作でね。これは伝説的になっていますけれど、後半の三分の一ですかね、警察の捜査本部と、乞食の親子の放浪の旅と、それから成長した青年ーー音楽家となった、加藤剛ーーが、ピアノを弾いて、指揮をとると。シンフォニーの。その場面が交互に、カットバックされて流れていくと。あそこの最後の三分の一の盛り上がりが、本当に堪らない、素晴らしい。それも何でしょうかね、一種これは、あんな貧しい乞食の子供がですね、こうやってこうなり名を遂げて、シンフォニーを指揮している。ピアノを弾いている。それがしかも、あんな貧しい乞食の息子。そしてしかも、こちら側では、それを犯罪者として逮捕しようとしている警察。そういうシチュエーションがですね、一種日本的な浪花節というか、ものすごい、なんか大衆的な要素があって、映画もですね、大ヒットしたんだと思います。とても素晴らしい。ノックダウンされたんですが、ノックアウトしてバンと地面に叩きつけられて、うわっと半分起き上がって、まてよ、と考えた。ひとつだけある。僕は文句が。「先生、これは何ですか」(笑)言いたいところがある。オーケストラのピアニストになるって位だから、よっぽどこれは小さい時からピアノの練習してないと、そんなことはないんやないか。5歳とか6歳とか普通はね、そのぐらいからピアノの練習始めて、そして、やっとピアニストとして一人前になる、というのがまあ常識的なところなんですが、一体この人、加藤剛は小さい時からどういう環境で自転車屋さんの息子嫁さんに拾われたって言うけれど、どうしてピアニストになれたんだろうって。そこが先生、疑問ですよって。先生が生存していたら質問しようと、したくなったんですが、まあ先生は「中島くん、何を言ってるんだよ」って。言われますよね、多分。「そこはね、君、腕力だよ。腕力、腕でねじ伏せるんだよ、そういうことは。」それが先生の、いつもの流儀。剛腕で、もう多少のことは腕でねじ伏せて貫き通す。そういう先生のドラマツルギーですから、きっとそういう風に先生は僕に、仰ったんじゃないかなと思います。
今日は、先生の確たる業績についてはですね、もう私から何も言わなくても皆さんご存知ですし、世間に知れ渡ってるんですが。ちょっとここでお話ししたいと思うのは、先生と私との、弟子と師匠という関係性と薫陶の数々について、お話ししたいと思っております。24歳の若造で、僕は先生の弟子になった。そして、先生はその時41、2かな。まだ若くって、とにかく美しくてね。もうあんな美貌な人見たことないと。光源氏の再来かという、本当に美しい。この市川町の町で、よくあんな綺麗な人が生まれましたね(笑)。みなさんはご器量がよろしいようですが。もう、ふるいつきたくなるような美貌でしたね。契機と言いますのは、私が、同人誌がありまして、シナリオの。同人誌に私の『海から声が聴こえる』というのを発表したんですが、それがたまたま先生の目に留まりまして。その時に内弟子で入っていた国広威雄さんという、僕の兄弟子になる人なんですが。彼と僕は友達だったので(先生は国広さんに)「これはどういう男なんだ。この中島ちゅう男は」と。「とにかくシナリオは面白いからいっぺん連れて来い」と言って。国広さんに連れられましてね。それで、羽根木の先生のお宅へ行ったんですよ。その時初めてでした。私は24歳。21で東京へ出て来て、シナリオライターになりたくて出て来たんですが、その前は、高卒で、高知県の高知銀行っていうところで3年間、銀行員で。それで銀行員をしながらシナリオを勝手に書いていたんですが。そろそろもう銀行やめて、東京行ってシナリオライターになりたいと思って上京して。それでまあ、自分だけでシナリオ研究所というところに入りまして。そこに先生も講演に来てくれましたね。その時からもう仰ぎ見るような、先生だったんですが。そういうことで、じゃあうちにきてみるかと。そこで「毎日通えるか?」ってんで「はい、お願いします」っていうことで、弟子に採用してもらったんですね。山田洋次さんとか鈴木尚之さんとか、そういうお弟子さんはいるんですが、いわゆる子飼いの弟子っていうのは僕と国広さんだけなんですね。山田さんにしろ鈴木さんにしろ、会社にも入ってまして、いわゆる社会的立場がちゃんと出来てる人なんですが、僕とか国広さんは、その辺で地べたに這いずってシナリオ勉強してる、全く無名の若造を拾い上げてくれて、それで内弟子にしてくれた。子飼いの弟子は、僕と国広さんと二人だけです。
その頃先生は、美しいだけじゃなくて、本当に確固たる自信に満ちていました。とにかく体で覚えさせる。シナリオは体で覚える。自分は職人だから、お前たちは職人の弟子だから、体で覚えろ、ということです。まず体で覚えるには、とにかく1日8時間、机の前でじっと座ってる。もう、トイレの時と、昼飯の時しか立てないんですよ。師と差し向かいになって、机を挟んで、そこで一日中座ってですね、お手伝いを。お手伝いと言ったって、その頃先生は、仮名タイプを使っていましたんで、仮名タイプの原稿を僕たちが清書するんですね。それと後は「このシーンを書いてみよ」と言って、与えられるわけです。それを、一応自分なりに書いてみる。書いてみて「先生出来ました」と言って渡してみて、先生が「違う」。突き返されるんですね。どこが違うかっていうの絶対言ってくれないの。どこが違うんだろうと思ってまた書き直す。また「出来ました」、「違うよ」っていうんですよね。「出来ました」「違う」をもう一日十回ぐらい、反復して繰り返して、しまいにはもう何を書いていいか分かんなくなって苦しくて苦しくて(笑)。だけど、絶対、どう書けばいいってことは言わない。自分でちゃんと考えて、書け、と。そうやってやった挙句に、「もういいよ、もう」と言って、それから自分でお書きになる、同じシーンを。そうすると一行か二行かセリフやト書きを拾われるんですが、それがまた嬉しくてね。ああ、もう一行でも二行でも役に立った、と思うと本当に嬉しかったと。そういう覚えがあります。
まぁとにかく、言われたのが「うまく書こうと思うなよ」と。「正確に書け」ということです。「シナリオとは、映画の脚本だから、何もうまく書く必要はないんだ。ただ、正確に書きなさい」それが先生の基本的な教えでしたね。正確にということはどういうことかというと、要するに、映画の脚本というのは時間と映像なんですね。ですから、時間の流れの中で、映像がどうやって順序よく流れていくか。そういうことが一番大切。例えば、赤ん坊を背負った美智子が、向こうからやって来る。てト書きを書いた。これは絶対「こんなのはダメだ」って言われるんですね。何がダメか、分かります?皆さん。「『赤ん坊を抱いた美智子が向こうからやって来る』っていうと、最初に目に映るのは赤ん坊じゃないか。それは違うだろ。やって来るのは美智子だろ?美智子が赤ん坊を抱いているだけなんだから。向こうからっていうのは、向こうからが最初だろ。美智子が次。美智子は何してるかっていうと、赤ん坊を抱いてる、そしてやって来ると。こういう風に、映像の順序というものがあるんだ」ここでシナリオの講義をしても始まらないですが(笑)、つまりそういう風に正確に書きなさい、というのがいつも先生の教えだったんですね。それを叩き込まれて、僕もそういう風にだんだん書くようになったんですが。
『南の風と波』という映画があって、皆さん観てらっしゃらないかと思いますが、それは私がオリジナルシナリオを書きまして、それを先生が手直ししてくれた。だからいわゆるこう、自分の書いた、限定のシナリオをですね、この師匠が手ずから直していく。目の前で直されていく。そのことが、私には自分の肉体に鍬でも入れられるみたいに、ピシピシピシピシこう、すごい敏感に感じられて。本当に肌で「ああ、シナリオってこういう風に書くんだな」ってことを、その時教えてもらったんですね。その時僕は、なんとかそこで一生の宝を得たと思っております。
そうは言っても、シナリオというのは、先生にいくら教えられても、先生の真似をしてもつまらない。橋本先生の真似なんか、中々出来ないんだけど、やっぱり一緒に机を差し向かってやってると、どこか似ていくんですね。自分の方は、もともと先生と資質が違うな、と思って、ちょっと先生のこの剛腕なシナリオのドラマツルギーを、本当に自分が借り物のようにして真似しても、それはしょうがないんじゃないかと思うようになっていったんですよ。それで、じゃあまあ、どうしようか、と言って、『南の風と波』っていう映画の撮影は、ずーっと僕、助監督の端っことして現場につきましてね、それで監督する先生と一緒に、ずーっと、30日ロケとか、スタジオ撮影とか、そういうこともやりまして。まあ、シナリオも一緒に作っていだいたし、映画も一緒に作っていたし、現場を経験できたし、本当に、これ以上のいい体験はない、と思っていたんですが。それが全て終わって、日活株式会社から「うちと中島、契約しないか?」って誘いがあった。僕はまだ先生のところにいてね、もっともっと教わりたかったんですが、どうしましょうかと、相談したら「ああ、中島くん。行け行け」と言われまして。「行け行け。行った方が良い。君はそっちの方が向いてる」てことで、そこで一応日活の専属脚本家になりました。
そのあとはですね、色々先生から叩き込まれていたんですが、もうあっという間にネジが緩んでしまって(笑)。もうこっちは自由気ままに楽しく、脚本を書いて、まあ現代に至っているわけですが。それでもですね、やっぱり先生から、緻密な構成というものを、叩き込まれていなかったら、本当に飯が食えてたかどうかわからないですね。日活の専属脚本家になってもですね、先生と会うと「おう、中島くん。ちゃんと食えてんのか?」って聞かれて。「ええ、なんとか食えてます。大丈夫です」って言うと「ああ、そうか。そりゃ良かった」って。とにかく、自分の弟子が、映画で飯が食えてるかどうか。そのことはとても心配して下さっていました。
 この表題のですね「追い詰められて鬼となれ」っていうんですけど、橋本作品の多くがですね、主人公が悪と立ち向かったり、不条理と立ち向かったりするわけですけれど。その主人公をどんどんどんどん追い詰めていくっていうのが、橋本脚本の基本ではないかと僕は思うんですね。「切腹」にしろ、「首」とか、「生きる」にしろ、皆主人公が、肉体的にも精神的にも追い詰められて、もう最後は、執念になって、鬼となって、悪に立ち向かう。というような、構成の脚本が多いんですね。それが、先生の中での一番成功しているドラマツルギーじゃないかと思うんですが。
よく考えてみると、僕にしろ国広さんにしろ、結構追い詰められました、先生に。だから先生のドラマツルギーは、その構造自体はですね、実は弟子の教育にも当てはめていたんじゃないかと。そういう風に、近頃思うんですね。
弟子を追い詰め追い詰め、つまりそれは書いても書いても、違う。違う、と突き返されるという、そういう繰り返し。私は、弟子入りして1ヶ月ぐらいして急性リュウマチになっちゃった。夜中に寝ると、布団の重みだけでもう足が痛くてしょうがなくなってですね、翌日這うようにして、アパートの近くにある、お医者さんに行った。「最近何?立ったことないの?どういう生活してるの、君は?」と言われて。「はい、こうやって一日中、先生と向き合って、もう一生懸命、1日8時間は座りっぱなしです」「それは緊張するの?」「もう大変な緊張です」って言ったら「ああ、そうか、これは急性リュウマチだ」って言うんですね。それで、注射一本打たれて。若いから注射一本だけで治りました。後はもうピンピンしてまた先生のところへ行きましたけれど(笑)。つまりそうやって肉体的にも相当追い込まれるし、精神的にも緊張して追い込まれるし、それからまた、新しい本を書け、オリジナルを書けよ1本、中島くん、って言われて書いた。で、書いて先生のところに持っていくと「これはなんだ、ひどいもんだ」と、もうけちょんけちょんなんですね。箸にも棒にもかからないみたいなことを苛烈批判をされまして。そんなことで鍛われる。追い詰められて鍛われて「ああそうだよ。俺は追い詰めてるんだから。追い詰められてるお前たちも鬼になれ!鬼になって、鬼になる覚悟で、脚本家になれ」と。そういう教えを、ここ(表題)で書きました。
そういう風に最近ですね、亡くなってから特に「そうだったなあ、追い詰められて鬼となれって言ってたんだなあ先生は。それがいちばんの教えだったんだなあ」って思うようになりました。
先生は職人だと自分で言うだけあって、非常に昔風な律儀な人なんですね。だから内弟子としてそうやって、一応拾ったからには責任持ってこれを世の中に出さなければならないという風に思ってらしたと思います。高知にちょっとついでがあった時だったでしょうか、四万十川の河口の私の家――高知から汽車に乗って2時間ちょっとぐらいのところに中村市というところがあってーーそれからさらにバスで30分、そこに私の実家があるんですが、そこにわざわざ先生は行ってですね、父に会って「おたくの息子は頑張ってますよ!」という、挨拶をしに行ってくれる。こんな人今いますか?本当に律儀で、一度預かった以上はこいつを絶対プロにさせる。そういうすごい責任感を持ってらしたんですね。ですから幸い日活に拾われて、先生に教えられたお陰で、こうやって一人前のプロに私もなんとかなったんですが、その昔気質の律儀さっていうのを本当に、先生はずっと死ぬまで持ってらした。
で僕は、亡くなる前の日の7月18日に、先生が危篤だっていうんで、お邪魔しましたら、もうちょっと意識朦朧とされてましてね。ただ僕が来たことはちょっと認識されて「ああ、中島くん、悪いね」と仰った。それがもう、先生の最後の一言になりました。翌日は先生のご遺体と対面しました。奥の部屋に寝かされていらして。なんていうんでしょうかね、この世の垢を全部削げ落としたような。ああやっぱり、そうだ、この人はこんなに美貌だったんだって。その美貌がデスマスクに、その美貌がそのまま残っている。凛としたお顔だった。そして、翌日は身内だけのお葬式に私、ちょっと遅れて行きまして。時間間違えて遅れて行ったら、ちょうどお骨が焼かれた後で、お骨がバーッと広げられてた。そこへバーッと駆けつけて行って、もう、お骨を壺に収める。箸で渡し箸いたしますでしょ、もう震えて震えて骨がつかめないんですね。それぐらい悲しくて、どうしようかと思って、泣きましたけれど。なんとかお見送りはできてよかったと思います。
惜しい人をなくして、私は呆然としておりましたが、今こうやってここで皆さんにお話しできることを本当に光栄で、嬉しく思っております。どうもありがとうございました。                              (完)