2018年11月11日 橋本忍生誕100年記念シネマシナリオフェスティバル シンポジウム 全編

2019年04月07日

平成30年11月11日 橋本忍生誕100年記念シネマシナリオフェスティバル
シンポジウム「理不尽への怒りと狂気に至る世界~橋本忍脚本の魅力と影響力~」の内容を全編公開致します。

パネリスト
中島丈博(脚本家)
高橋信裕(博物館学、高知みらい科学館館長、元文化環境研究所所長、元常磐大学教授)
渡辺紘文(映画監督)
榎田竜路(メディアプロデューサー、(合)アースボイスプロジェクト代表社員)

司会:石飛徳樹(朝日新聞記者、映画評論家)
*敬称略、順不同
場所:市川町文化センターひまわりホール(兵庫県市川町)

石飛:それでは第2部、始めさせていただきたいと思います。私は司会を務めさせていただきます、朝日新聞の石飛と申します。どうぞよろしくお願いいたします。私の方からパネリストの方々をご紹介したいと思います。
今、素晴らしく楽しい講演をしてくださった中島丈博さんに、第2部もまたメインキャストで参加していただこうと思います。それから、橋本忍記念館の設立に尽力され、今は高知みらい科学館の館長をされている高橋信裕さんでございます。今、ご紹介したお二人は古くから橋本先生と友交のあった方々でございます。次、渡辺紘文さんは、若いクリエイターの代表として、ここに出ていただきました。映画監督の渡辺紘文さんです。そして、今日のフェスティバルの段取りをして下さいました、メディアプロデューサーの榎田竜路さんです。
では早速始めて行きたいと思いますが、まず、みなさんが、どのように橋本さんと出会って関わりがあったかというようなことからお話しいただきたいですが、僭越ながら、私から話させてもらいます。
私はですね、朝日新聞の映画の担当記者をしておりまして、2005年に初めて橋本さんに取材でお目にかかりました。13年前ですね。その時はちょうど野村芳太郎監督が亡くなられた時で、追悼記事を書こうと思いまして。やはり、橋本さんにお話を聞かねばならないということで夜中にご自宅に押しかけまして、インタビューをしました。その時にすごく印象に残っているのが『砂の器』の話です。『砂の器』はできるまでにかなり時間のかかった、制作にかなり苦労された映画だそうでございまして。監督が野村芳太郎さんで脚本が橋本忍さんです。橋本プロダクション、ご自分の会社を立ち上げられた第1作でございます。プロデューサーも兼ねているので、ハンセン病のお父さんと子供旅のシーンがありますね。これが日本全国回るとお金がかかるので、一箇所にまとめようとされたようなんですけれど、その時に野村さんが「映画っていうのは空気も映るんだよ」と仰って、かなり広範囲の旅を日本の四季と共に映されて、これが大ヒットの大きな原因になったわけです。その時の「空気が映る」ことを仰っていたというのが、橋本さんにも印象に残っておられたし、私にも大変印象に残っております。そこからのお付き合いです。
橋本さんは今年(2018年)7月19日に亡くなられましたが、その4日前、7月15日に、3時間ほどインタビューをさせてもらいました。子供の頃から今までのことをお話ししてもらいまして。その時はお元気だったんですけれども、2日後に危篤になられて、そして亡くなられてしまいました。その時のインタビューの記事を、まもなく朝日新聞に載せようと思ってますので、読んでくださいとは言いませんが、宣伝しておこうと思います。それでは、中島さん、先ほど出会いなどはお話しいただきましたけれど、何か付け加えることがありましたら。

中島:あのままでございまして、他に付け加えることはないです。

石飛:ありがとうございます。高橋さんは、もう古いお付き合いでいらっしゃいます。どんな感じの出会いでしたか?

高橋:私の話の前にもっと時間があると思いましたら、いきなり隣りから来たんで、すみません。高橋信裕と申しますが、生まれは高知県の宿毛市というところで、大学の卒業論文に、伊丹万作を専攻したんですね。伊丹万作さんのお弟子さんが橋本先生で、そこで繋がりができたんです。当時、板万会っていう、伊丹万作を偲ぶ会がありまして、その板万会に映画プロデューサーの栄田清一郎さんや伊丹十三さんのお声掛けで参加したことから、先生と知り合いになりました。卒業後の仕事は、記念館とか、博物館の建設、展示の企画、設計、製作などの仕事を請け負う会社に勤務しました。仕事の関係から建築設計会社との付き合いが多く、そうした設計会社の一社に市川町の文化センターの設計を請け負った会社(昭和設計)があり、奇遇ですが、高橋が橋本先生とのお付き合いがあること、また記念館の設計にも経験があることなどから高橋に入ってもらおうということで、参画したんです。当初は市川町に文化センターができる。文化センターは図書館と、ホールと、公民館的な施設が一緒になっているんだけど目玉となるものが欲しいということで、今日この会場にいらっしゃっている、当時の町長尾崎光雄氏、担当責任者だった山本美樹さんたちが、町のブランドとなる文化資産を改めて検証したところ橋本先生の存在にたどり着き「そうだ、橋本先生はこの市川町の生まれなんだ」「橋本先生は、戦後の日本映画史を代表する脚本家であり、橋本先生の記念館こそふさわしいのではないか」と、橋本忍記念館を文化センターの中に、シンボルとして位置付けることになったのです。ご本人とご家族は、この計画には乗り気ではなく距離を置かれました。橋本先生は、まだ生きているのに、これからも将来があるのに、まるで終わったかのように墓碑、つまり橋本先生には記念館が大きなお墓のように感じられたのでしょう。反対でした。家族の方々も平穏な日常をかき乱されることを思い、関わることをためらいました。さあ、困りました。計画の頓挫です。こうした状況を打開するには一番の当事者である橋本先生にすがるよりほかはありません。思い切って相談しました。すると先生は「ノンちゃんに相談しなさい」とのご教示、ノンちゃん(野上照代さん)とは伊丹万作さんを師と仰ぐ板万会の中心的存在の映画人です。黒澤監督作品のスクリプター(記録係)としても著名な方です。板万会でもお会いしていたので、早速ご相談しました。当時は、黒澤監督亡き後の黒澤プロダクションのプロデューサー的な役割を務めていた方なんですけれど伊丹万作さんの、お弟子さんの一人でしたから、橋本先生とは兄妹弟子になるわけですね。それで私「この度、市川町に、橋本先生の記念館を作る予定ですが、是非とも協力お願いできますか」と相談したところ「あんたがちゃんとやってくれるなら、協力してもいい」ということで「しっかり、ちゃんとやりますからどうかお願いします」で協力いただけることになりました。展示内容は、橋本家の倉庫に山積みされていたシナリオや著作物、賞状、トロフィーなど一切を記念館に移し展示計画に充てました。展示できていない資料がまだまだ沢山あります。橋本先生のシナリオは、黒澤監督との共同執筆が多く、ことに野上さんが撮影現場で使われていたシナリオは、現場でのカメラの位置、俳優の衣装などが細かく記録されていて映画作りの舞台裏を伺い知ることが出来ました。オープン後も、毎年映画祭をやって、そのイベントに合わせて、橋本先生の映画に関係した俳優さんをお呼びして、ここで講演会と映画の上映を何度かやっています。例えば丹波哲郎さん、田中邦衛さん、小林桂樹さん、倍賞千恵子さん、田村高廣さんたちに、この会場で講演していただいております。橋本先生と私の繋がりとしては、そういうところですね。

石飛:ありがとうございます。板万会というのは、野上照代さん他、どういうメンバーがいらしたんですか?

高橋:映画監督では佐伯清さん――東映でヤクザ映画なんかで有名な監督で伊丹万作さんの助監督をやってて監督になった方――、その他は伊丹万作さんが脚本書いて監督もした稲垣浩さんとかですね。そうですね、あと北川冬彦さんという、著名な詩人ですけど映画の評論もされていたりして万作さんのよき理解者だった方。それから、有名なカメラマン、羅生門の宮川一夫さんとか、伊丹万作さんの娘さんで十三さんの妹に当たる、大江ゆかりさん――大江健三郎さんの奥さんですね――そういう、多才な人たちがみえておりましたね。

石飛:佐伯清監督が、橋本さんに黒澤明監督を推薦したんですよね。

高橋:そうですね。橋本先生が羅生門を書いてそれを清さんに見せたら、じゃあそれを黒澤に紹介しようってことで。黒澤さんに紹介したところ「お前の師匠誰だ?」と。「伊丹万作です」「あ、伊丹さんのお弟子さんか」って事で、黒澤さんの態度が急に変わったということで。それで『羅生門』を採用してもらったようですね。何度も書き直しがあったようですが。

石飛:ありがとうございます。渡辺監督お願いします。

渡辺:どうも、渡辺紘文と申します。普段は栃木県大田原市という、北関東の小さな町、そこを拠点に、いわゆるインディペンデント映画をずっと制作しているような人間です。橋本忍さんと特に面識があったりするわけではないんですけれども、僕の場合は、映画好きが高じて映画を作る人間になったというところがありまして。僕の父親が非常に映画好きで、中でも黒澤明さんの映画が大好きで、僕も父親の影響を受けてですね、黒澤明さんの映画を、子供の頃から見るようになって。『七人の侍』『生きる』『羅生門』『生きものの記録』『隠し砦の三悪人』とかですね。映画ファンが高じて映画を作る人間になったものとしては、橋本忍さんというのは、本当に大きな存在です。今回このような催しに呼んでいただけて本当に光栄に思っております。色々勉強させていただくつもりで参加しています。今日はよろしくお願いいたします。

石飛:黒澤映画をご覧になっているという事でしたけれども、橋本忍っていう名前を意識されたのはどんなところからだったと思ってらっしゃいますか?

渡辺:そうですね、僕がものすごい量の映画を見るようになったのは大体大学生ぐらいの時からで、東京の池袋に新文芸坐という非常に有名な名画座がありまして、そこで黒澤明特集という特集があり、毎日のように学校にもろくに行かずその映画館に通いつめていたという時期がありました。毎日映画を見ていると橋本忍さんと脚本に名前があってですね。もちろん黒澤明の映画だけではなく『砂の器』『日本沈没』とかですね、数々の名画に橋本忍さんの名前が出て来ますので、いつしか自分の心の中で、お会いしたことはないですが敬愛する映画人になっていたというところですね。

石飛:私、渡辺監督の『そして泥舟はゆく』という作品を見させていただいたんですけれど、黒澤監督のものとは若干、テイストの違うもののような気がするんですけれど、どの辺りにこう、橋本イズムが監督の作品に入っているのでしょうか?

渡辺:非常に難しい質問で。僕の映画っていうのは本当に予算がひっくり返るぐらいない映画なので、中々黒澤明とか、大きな映画会社が製作したような映画を作ることは出来ないんですけれど。人間の生活を描くとかですね。結局何故映画を作るかって考えた時に、やっぱり人間っていうものがどういうものかっていうことが分からない。それを追求したいという思いで、映画を作り続けているので、そういう意味では、橋本さんが作られた映画や脚本の影響があるのかなと。ある種のスタイルとしては、特に影響を受けているように見えないかもしれないですが。あとは僕が作っている映画は中々上映される機会が少ないんですけれども、全て白黒映画なんですね。そういう意味では、やっぱり往年の日本映画みたいなものが大好きで映画を作っているので、そういう意味での影響はあるかもしれません。

石飛:ありがとうございます。榎田さんは、どういう関わりが?

榎田:僕が関係としては一番遠くにいる人間だと思うんですけれども、先ほど僕はメディアプロデューサーという風にご紹介いただきましたけれども、海外の大学、映画の大学で先生をやっておりまして、その関係で映画の研究を始めなくてはいけなくなったんですね。14年くらい前のことです。そうしていくうちに、たまたま姫路出身の経済産業省の官僚がいましてね。面白い人で、東大の法学部出てるくらいで頭はいいんだけれど、官僚には珍しく、心もあるしセンスもあるし、霞ヶ関であの人しか見たことないかなって感じの人なんですね。なんか血が緑色じゃないかって人ばっかりなんですけど(笑)。彼に10年ぐらい前にこう言われたんですよ。「補助金も出した。東大法学部トップで出て、ハーバードやプリンストン、オックスフォードに留学に出して、最先端の政策を学ばせて戻って来たやつが政策打ってんねん。なのに一向に地方も中小企業も活性化せえへん。なんでやと思う?」と。僕にそういう質問すること自体がかなり変わった人だと思うんですけれども。言ってしまえば僕は地域活性とかまるで関係ない、実際専門は音楽、音楽家ですね。音楽家にそういうこと聞かないでしょう?普通。変ですよね、やっぱり。それで、正直に「分からない」って言ったわけです。中小企業が活性化してないとか、地方が活性化してないとか全然知らなかったから、その時。そしたら「そんな冷たいこと言うな」って言うんですよ、その人は。友達やないかって。友達だからってねえ。分からないって言ったら、「えのちゃんの目で見て来てくれ」と。リストをバーっと、全国50ヶ所位渡されたかな。酒飲みながらの話だったんで、すっかり忘れてたの、翌日。そしたら、部下の人からね、いつも大変お世話になっておりますっていうメールが来るんですよ。その人初めてなんですよね、大体(笑)。ちゃんとリストが載ってて。で、行きました。50のうちの20位行ったかな。その経産省の課長が、今はもう、結構偉くなっちゃったけど、頼んで来るから、経費ぐらい出ると思ったら、一切出ませんね。友達だから(笑)。で、見たものは何かっていうと、日本っていうのは宝の山だなと。こんなすごい国ないぞ。じゃあなんでこんなに人はどんどん出てっちゃうし、中小企業は上手いことお金儲けられないんだろうって言ったら、ああ、これは、自分の価値がこれだけだっていう風にしか思ってない。思い込みってのが強いなと。で、若者たちが出て行ってしまうのは、地元で働いている人たちのことをちゃんと知る機会がないまま出て行ってしまってるな、と。だから知る技術、調べる技術、取材する技術、これは映画の中にあるものですから、それをアレンジして、これまで全国で講座をやって来たんですよね。たまたま去年、こちらでその講座を大人向けにやりました。今日みなさん、階段上がって来るときにポスターがあったでしょう?小学生が作ってんです、ここの。もしよく見てなかったら、帰りはよく見てください。その子たちも教育の一環として、地域のことを知るってことで、撮影の仕方と、物語をどういう風に引っ張って来るかっていうことを少し教えています。
市川に来たときに、最初にここ(市川文化センター)に来たんですよ。そしたら「橋本忍」という名前があるじゃないですか。は?って感じですよね。え、なんでここに橋本忍先生の記念館があるんですか?って聞いてら、ここ、出身地ですと。びっくりでしたね。とにかく、僕は橋本忍先生みたいに脚本家や監督ではないんですけれども、僕もやっぱり黒澤先生の作品大好きで、そうすると必ず橋本忍って名前が出て来るわけですよ。どんな人なんだろうって思ってたんですよね。そういうことで御縁が出来て、橋本先生を、作品だけではなくて、色々な本を拝見して勉強したりして、今日ここにいるというかたちです。

石飛:ありがとうございます。中島さんにもちょっとお伺いをしようかと思うんですけど、この講演のテーマも、タイトルも、とても面白いものでしたけれど、シンポジウムのこのテーマ(「理不尽への怒りと狂気の世界」)も、中島さんに作っていただいたんですよね?これもちょっと、解説いただいても良いでしょうか?

中島:解説といっても、読んだ通りなんですが、さっき申し上げた通りで、主人公が、とにかく理不尽に一種の社会悪に追い詰められていく。そして追い詰められて追い詰められて、怒りが根底に、社会の矛盾とか、警察機構だったり、その時々で、変わるわけですけれども、そうやって、理不尽に対する怒りがあり、そして、追い詰められて狂気になると。そういう先生のドラマの、映画の世界をああいう風に書きました。その通りでございます。

石飛:ありがとうございます。亡くなられる4日前にインタビューした時に、橋本さんのおばあさんの話をかなりされていて。おばあさんが子供の頃に、明治初期、明治が始まった当初に起こった、この近くの生野騒動のお話をしょっちゅうされていたという話で。それがお昼から、お昼ご飯の前から、晩ご飯の前までかかるお話だそうで。それを毎回されて。生野騒動っていうのは、農民たちの反乱なんですけど、鎮圧されて、その首謀者たちが処刑されていくところが毎回あまりにも怖くてですね。おばあさんの旦那さん、橋本先生のおじいさんもそこにいたそうで、そこで首を切られていたら自分もそこにいないんじゃないかと。いろんな怖いことがいっぱいあったと、色んな話が、その語りが、橋本先生の原点っていう風なお話をされていたんですけれど、その時に仰っていたのが、おばあさんが、必ず最後にそのお話をされたあとに、貧乏人は、時代がどんどん進むにつれて、対応が悪くなっていくんだと。毎回、仰っていたと。シナリオを書くようになって、その言葉を思い出して、シナリオを書くのは簡単なんだよ、と仰っていて。貧しい者がどんどんどんどん悪くなっていくように書きさえすれば良いんだ、と仰っていたのが、タイトルを見て思い出しました。そういうような映画、本当に多いですよね。
橋本さんの物語の魅力みたいなことにも、入っていきたいと思うんですけど。高橋さんは、橋本さんの魅力っていうのは、どんなところに?

高橋:単純明快っていいますかね。あまり複雑にこんがらない、話の筋がすごくわかりやすくてドラマティックによく抑揚が付いている。起承転結っていう原則を、きちっと抑えておけば映画っていうのは面白く出来るよって。そういうことをよく仰っていました。

石飛:板万会などでは、橋本さんの脚本のお話なんてのは、あったんですかね?

高橋:板万会であの交流を温めるっていうかね、みんな酒飲んで。僕なんか「そこに花瓶があるんだけど花がないから」って、稲垣監督に「花買って来い」って言われて、花買ってきて差したら「お前ね、花の差し方も知らないのか、これだけの短さじゃないと花瓶に合わないだろう」って講義された。そんなことばかりでございます。あとはお酒って感じでしたね。板万会ですから、京橋の美々卯っていうね、料理屋さんで会合を開いたあと、京橋のフィルムセンターで伊丹万作監督の『赤西蠣太』を上映してもらって、万作さんを偲んだりしました。東和映画の川喜多さんたちもおいででした。同席された栄田清一郎プロデューサー、この方も万作さんのお弟子さんなんですが、栄田さんから『赤西蠣太』のシナリオを渡され、フィルムが完全な形で保管されているか、抜けがないかチェックしろと依頼され、抜けがないことが解りました。
石飛:渡辺監督にとっては、橋本脚本とはどういうものでしょう?どういう魅力が?

渡辺:僕はやっぱりとにかく面白いなっていうのがまず第一にあって、今僕資料持ってるんですけど、考えてみたら『七人の侍』とかですね『羅生門』『生きる』『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』『悪いやつほどよく眠る』――傑作ばかりで、何度も繰り返し繰り返し見てるんですね。それで何度見ても面白いですし、時代が変わっても色褪せることが全くないなっていう、とにかく映画の面白さの真髄っていうのはここにあるんじゃないかっていうぐらい、橋本忍さんの脚本っていうのは、とにかく面白いところがあると思います。有名な話ですけれども『隠し砦の三悪人』は、ハリウッドの『スターウォーズ』にそのまま、完全なコピーですよね。『スターウォーズ』になっているようなシナリオなので、世界共通で面白いっていうのが、僕にとっての橋本忍さんの脚本のイメージかなって思います。

石飛:そうですよね。亡くなられた時に日本でも大きく報道されましたけれども、橋本さんの脚本は『羅生門』がベネチア映画祭の金獅子賞を取り、小林正樹監督の『切腹』はカンヌで審査員特別賞、これはいわゆる準優勝ですよね。二番目の賞なんですけど、そのように評価が高いので、国際的にも訃報が流れてニューヨークタイムズでもとても大きく報じられたりしましたね。榎田さんは、橋本脚本については?

榎田:とにかく、渡辺監督も仰ったけれども、面白い。とにかく僕は『隠し砦の三悪人』とか、本当に大好き。一年に一回か二回は見ちゃうんですよね。もう筋もおおよそ頭に入ってるんですけれども、やっぱり展開がものすごく、冒険活劇の一番基本みたいな。でも基本は、誰かを助けるために、(この作品では)敗戦した国のお姫様を守って助けるために、三船さんがやってた役の方が、本当に知恵も体も使い、でも武士の気概は絶対無くさずに行くっていう姿を見ると、自分の中にすっと筋が立つような、そういった脚本が橋本先生の魅力という風に思っております。

石飛:みなさん仰るように、シンプルで面白いという、結構難しいことですよね。どうですかね、中島さん、さっきお話を聞いていて思ったことがあって。すごいハンサム、美貌だったとおっしゃっていましたけど、確かに子供の頃から、本当に可愛らしい少年で、美しい青年になられ、という風な。美貌で身長も高くて仕事も成功して頭もよくて、全てを持ってらっしゃるから、なんていうんでしょうか、脚本がすごいストレート、いじけてないというか、ひねくれてないというか、そういうところがあったのかなあと、思ったりもするんですけど、どうでしょう?

中島:まあ自信につながりますよね。美貌っていうのはね。先生は自分でも仰っていたけど、本当ならば、戦争にとられてもおかしくない、ちょうど、自分の隊には他の連中はほとんど死んでしまった。たまたま肺病になったおかげで、命が救われて、しかも伊丹さんという良い先生に付かれて、あとは黒澤さんに見出されて、自分の作品がカンヌの映画祭で賞を獲るという、本当に恵まれていらっしゃった。それも美貌が一つの要素になっているのかなと思いますね。

石飛:これ台本がなくて、突然振ってますんで、すみませんね。難しいことをこれからもいっぱい、振りますんでよろしくお願いします。カンヌで賞を獲られた時は『切腹』ですね、すごい評判が良くて、もうこれはパルムドール間違いなしだってみんな盛り上がってたらしいんですけど、最後に、ヴィスコンティの『山猫』にパルムドールをさらわれてしまって。授賞式後のパーティはなんか、お通夜みたいになってたって。ちょうどすぐ隣で山猫軍団が盛り上がってたらしいんですけど、まあヴィスコンティに負けたならしょうがないですよね。そんなことを面白おかしく語ってらっしゃったのを思い出します。渡辺監督、また無茶振りしますけれど、美貌と脚本について。

渡辺:そうですね、僕と真逆なんで、完全に。僕は自分が醜いから、自分の作品に自信がないとかはあまりない。なんか変な話なんですが。逆にその、醜さを利用しようみたいなところはちょっとあるかもしれないですね。すいません変な話で。

石飛:ありがとうございます。あの、先程も中島さんのお話にも出ていたと思いますけど、やはり橋本さんというのは、構成というのがすごく言われていますね。構成をきちっと練って作るというようなことが特徴と言われていますけれど、その、脚本作りみたいなところを間近で見られて、どんな風に構成というものが出来ていくと感じられたのでしょうか。

中島:箱書きが一番根底にあると思います。これくらいの小さな紙に、小さな箱で書くというのもあるんですが、弟子に要求されるのは、模造紙ですよね。大きな、畳一畳あるぐらいの大きな模造紙に、箱を書いて。一箱がこの紙一枚ぐらいの箱を書いて、シーンナンバー1から始まって、海辺とか、そういう風になって、そこに大体の芝居の動きとか、風景とかセリフ、ちょっとしたセリフとか、そういうのを書いて、それを順番に1、2、3、4と並べていくんですよね。それがまあ、模造紙の大きな紙が一本の映画でおそらく12、3枚。あるいはもう少し、16枚ぐらいになるかもしれませんが、それを僕とか国広さんが書いて。先生は、旅館の大広間とかね、それかお仕事場の二階、二間続きで、そこにこう並べてずーっと、部屋の隅まで、ずーっと、ぐるーっと並べるんですよ。それを上から俯瞰してね、ご覧になるの。こうやってこう立ち上がって見ていかれて「ああ中島くん、このシーンいらんよ」「ここちょっとダメ。差し替えて」とかね。それで僕らはまた直していくんですけれど。そうやって全体、ほとんどファーストシーンから、ラストまで全部きちんと書いて。で、やっと、シナリオに取りかかると。ということをしてらして、この箱の段階で全部、全体図が見えてましたね。そんな感じで、実に構成を大事にされた方だと思います。

石飛:中島さんはその、橋本さんがやられたことを、継承してやってらっしゃるんですか?

中島:ええと、大きな模造紙使うような巨大な箱は手間がかかるので、やってませんが、小さな箱は書いたり、あるいは、箱にしないで箇条書きでこう、書いて一応ファーストシーンからラストまでは、作るようにしていますが、中々見通せないことも多いんですよね、シナリオって。最初から最後まで、全部見通して書くっていうのは、それで見通したつもりでも途中で、これじゃダメだってこともありますので、それがまた箱が変わってくるってこともありますし。一応途中まで、三分の一まで書くとか、半分まで書いて、あとはまた繋げるというような書き方もしたり。中々師匠みたいに辛抱強く、最後まで箱を作るっていうのは難しいと思います。

石飛:ありがとうございます。さっきの講演のお話の中で赤ん坊を背負った美智子が、という話がありましたよね。あれは、文章一文一文も、構成しろっていう。

中島:そうですね。やっぱり映像の順序というものがあるんですね。ですから、映像の順序にはト書きの順序、セリフの順序、その次には、シーンの順序ってのがあって、シーンの並べ方の順序。このシーンの次はこれであるとか、このシーンでお芝居を全部やらないで、七歩止まりで止めておくとか。そのあとは、省略してしまって、次に持ち越すとか。つまり色んなやり方があって、先生独特の。それを箱の中で大体、芝居はここで七分止まりでいいよってことになる。そういう風に、箱の段階からそういうのが見えてまして、そこは中々緻密といいますか、実に細かいところまで。セリフだって、どっかで符合していたりするんですね。先に喋ったセリフが、後半、伏線になってそれが生きてくるとか。そういうことも、しょっちゅうされていました。実にこう、緻密な箱書で構成だったと思います。

石飛:僕、文章書く仕事をしてますけれど、どういう言葉の順番で並べていけば、読者、読む人に伝わりやすいかっていうのは、本当に大事だなと思っていて、改めて、そのことを思わされたんですけれども。映画だけじゃなくて色んな所に、この構成っていうのは生かせるなと思って聞いておりました。榎田さん、シナリオ力みたいなことは、映画だけじゃなくて、芸術だけじゃなく、色んなことに生かせるんじゃないかなってことを、昨日、話していましたけれど、そのお話をちょっと頂いてもいいですか?

榎田:はい。これは実は、中島先生にお目にかかって、お話を伺ってから気づいたことなんですけれど、日本は活力がないとか生産性が低いとか言われてですね、(自分は)それをなんとかしなきゃいけないっていうような所にはめ込まれてるんですね。特にそういう専門じゃないんだけど。だけども、それはどういうことかっていうと、効率をあげるっていうことで世の中が出来て来てしまっていますが、効率って限界あるじゃないですか。人工知能だ、ITだって言っても、限界来ますよね?今までずっと色んな事業計画、行政の事業計画や、企業の中期経営計画を拝見していて、なんかいまいちピンとこなかったんですよね。「(この事業計画は)計画通り行ったことあるんですか?」って聞くと「ないです」ってみんな言うんですよ。じゃあなんで計画立てるんだろうなって思っていたんですね。で、中島先生とお話をさせていただいたときに、ああ、この事業計画には、シナリオがないんだって、思ったんですよね。つまり事業計画自体が、のっぺらぼうの人間を前提に作られていて、個人個人個性を持った色々な人たちが、こうしたらどういう風に動くだろう、こうしたらどういう風に感じるだろうっていう風に、まさに機械の部品のような感じで計画を作ってしまっている。だから、実際にやってみたらうまくいかない。これが原因だってことを、中島先生のお話から、急に気がついてですね。だからやはり、映画は本(脚本)が大事。脚本っていうのは、さっき『隠し砦の三悪人』でもありましたけど、こういう状況にこの人が陥ったら、どんなセリフを言うのかって考えて、作るもの。なんか、シナリオの力っていうのは、当然芸術の世界、で、渡辺監督のような新しい世代が、どんどん(レガシーを)受け取って、映画っていう芸術をもっともっと発展させていかなくてはと思いますけれど、僕のように映画の世界と、いわゆる現実の社会にこう、挟みこまれた人間にしてみると、橋本先生のレガシーっていうのは、むしろ我々のような、映画ファンではあるかもしれないけれど、普通に生きている人たち、例えば行政の方、町長、市長、国会議員とか、そういう人が、シナリオを作る力、人がどう動くのかってことを、ちゃんと勉強した方がいいんじゃないかなって思ったんですよね。ですから、シナリオを書けない人が、事業計画を立てるんでうまくいかない、っていう気づきが本当に最近では一番大きい気づきでした。

石飛:皆さんに映画を見てほしいですよね。もっと映画館に行って欲しいですね。

榎田:学校行かなくていいです。いや、嘘ですけどね(笑)。ですけど、映画、特に、新しい映画だけじゃなくて古典と呼ばれているもの。100年前にも映画ありますから。全部見てみると、ヒントがいっぱいあるような気がしますけどね。

石飛:ですね。高橋さんは橋本さんの映画をご覧になって、実生活といいますか、映画以外のところでなにか学んだところや生かしているところがありましたら。

高橋:映画の話で、橋本先生が監督たちと話している中で、ちょっと聞いた話があるんですが「俳優さんには本、脚本を読ませない方がいいんじゃないの?」って言うんですね。「自分の運命が、最後に死ぬんだとわかってると俳優はそれまでの普通の演技に、自分は最後は死ぬんだからという、そういう悲壮な思いが表情に現れる。だから、シーンごとに、こういう状況だからこういう演技してねっていう、シーンごとに演技指導をすれば、良いんじゃないか」っていう、そういうことを橋本先生は仰ってたことがありましたね。
私生活の方では、とても欲のない方で「記念館作ります。先生、何か資料いただければ」と言うと「ああ、物置にあるから持って行きなさい」って。物置に行ったら、山積みで「捨てるんですか?」「捨てるよ」「なんでですか?」「俺まだ、未来があるから」「過去のことはいいんだよ。済んだことは 」「メダルとか賞状と、勲章とか、全部持ってけ」って言って。今先生のところにはなにもないの。だから電話で「あのシナリオは、今どこにある?」って聞くから「先生、お預かりして記念館にありますよ。」って言ったら「俺がまだ映画化してない作品、リストアップしてくれないか?」自分ところにあれば、自分でできるんだけど、ないもんだから、こちらに依頼が来たりして。そういう、欲のない、過去のことは過去のこと、俺はまだ未来があるっていう。すごく前向きですよね。そういう潔くって、あまり過去にこだわらない人でしたね。

石飛:映像の中でも仰ってましたけど、松本清張さんとの話で、60代、70代、80代、90代死ぬ前が一番、面白い作品が出来るっていう。こういう風に思っていられたら、本当に人生楽しいだろうなっていう風に、勉強になったというか、自分も見習いたいなと思いましたね。

高橋:亡くなる直前でしょ?石飛さんがインタビューして。それがもう最高に、傑作な訳ですよ。先生からすると。死ぬときが一番、スキルが上達していて、充実している時期だよって。

石飛:ありがとうございます。そうですよね。僕もそうありたいなという風にすごく思いました。渡辺さんは構成についてのお考えみたいなものは何か。脚本の構成っていうのは。

渡辺:そうですね。橋本忍さんのシナリオっていうのはすごい、その面白いってことがまずあるんですけど。改めて見てみると、リアルタイムで見ているものは一本もないんですね。でも、本当に有名な作品ばかりですし『日本沈没』とか『砂の器』とか『八甲田山』っていうのは、大当たりしてる映画ってことで。僕が『月刊シナリオ』に載ってた文章の中ですごい衝撃を受けて、橋本忍さんって本当にすごい人なんだなって思ったのは、根底にはその社会に対する怒りとかですね、そういう理不尽なものに対する怒りみたいなものがキチンとあるシナリオで、その面白さもありながら更に「当ててる」ってことがものすごいことだと思いまして。
『月刊シナリオ』に「『真昼の暗黒』という作品は、社会に対する怒りがあって作ったものなんですか?」っていう質問に対して「違うんだよ。これは母子ものだから当たるんだよ。泣ける映画だから当たるんだよ」っていうことを橋本さんが仰ってるのを見て、この人はそういう能力にも長けてるんだっていうのが、途方も無い能力を持った方だなと本当にびっくりしたんです。そうですね、人の心を掴むから当たるという感じです。

石飛:あの、当たるということで言うとですね、お父さん、橋本さんのお父様がこの地元で芝居の興行をされてたんですよね。その興行的な勘みたいなのを、お父様はとても持っていらしたというお話をされてて。お父様が亡くなられる直前に、もう長く無いっていう時に、橋本さんが東京から故郷にお見舞いに帰ってこられて。お父さんの枕元に橋本さんの脚本が2冊置いてあって。それが『切腹』と『砂の器』だったんですよね。それで『切腹』はもう映画になってたんですけど『砂の器』はその時に脚本はできていましたが、まだ映画にはなってなかった(松竹の城戸四郎社長がこのシナリオを気に入らなくて、お蔵入りになっていた)。「お前の中で面白いのはこの2冊ぐらいだ」と言って。橋本さんはちょっとムッとしたらしいんですけど、その時に「シナリオの完成度では『切腹』だけど、俺の好きなのは『砂の器』だ」と仰って。「『砂の器』は、これはもう、やれば当たる」と、こういう風に仰ったらしいんです。それで亡くなられたんですけども。その時、橋本さんは自信がなかったんだそうですよ。「お父さんこんなの当たりますかね? 僕はあんまり当たると思えないんですけど」と仰ったんだけど「いや、これは当たる」と。で、その言葉を信じて、いろんな映画会社にプレゼンに回られたそうなんですけど、自分では半信半疑のまま回ってたと。どう考えてもハズレそうなんだけど、親父が言うから当たるのかなって思って回ってた、という話がすごく面白かったですね。その、当たる、当たらないってことを重要視されていたのかなって思いますけど。中島さん、当たる当たらないみたいな話っていうのは、橋本さんよくされてましたですか?

中島:そろばんが好きだった。例えば『幻の湖』っていう作品がありますけれど、愛犬は全国に何千万か、それから雄琴温泉に行く人は大体これ位ってそろばんに入れて行く。そして、なんかいろんな要素をですね、マラソンする人はこれ位って言って入れていく。大体これ位お客が来るはずだ。だったら当たるだろうという。それでやったという話。もともと競輪がお好きで、僕が聞いた話では儲かった時ばかりではなくて。
『日本の一番長い日』。あの作品は監督が途中で首をすげ替えられちゃった。
最初は小林正樹さんが監督だったんですね。それが東宝の副社長だった藤本真澄さんと監督が大げんかしまして、そして「もう絶対この作品は小林には撮らせない」って、藤本さんが怒鳴りまくったんです。それでその後に先生が呼ばれましてね。
「ものすごいもう、頭から湯気出してますよ、副社長は。今行ったらやばいですよ。今のとこは」っていう所へ、とにかくしようもないから挨拶に行ったら「おお橋本くん、次のあれ、小林に撮らせないから、次の他の監督考えろ!」って。で、田中友幸さんと二人で困ったなあって。
「じゃあとにかく、岡本喜八さんにしようか」っていうことで、そこで首のすげ替え劇があったんですよ。
その時にね、まあ仕方ない、と思って「じゃあ」ってんで帰りかけたら、田中友幸さんが「橋本、橋本!このまま小林をほっとくわけにいかないだろう。だから小林のためにこれからなんか書いてやってくれよ」って。先生は「知らんわもうそんなこと。勝手に東宝で首すげ替えるのなんのって、僕はもう責任持てませんよ。そんな本も書きません」って言ってそのまま文芸部に降りていって、一段下の、東宝の。そこでギャラが200万ぐらい貯まってたんですよ。それを持ってね、まっすぐ後楽園(競輪場)に行っちゃって。それで車券買ったら、これがもうぼろ負けで、全部すっちゃったんですって、200万。
「先生も負けることがあるんですね」「いやああのときは全然すっちゃってね」
それで翌日になってね、よく考えてみて、あの仕事、どうなってんだろって思って田中友幸さんに「昨日の話だけどあれ誰かに頼んだ?」って聞いたんですって。そしたら「まだだよ」と。「じゃあ俺がやるよ」と言って。10日で『拝領妻上意討ち』を書いた。で、小林正樹さんがそれを撮ったっていう、そういう逸話を話してくれました。まあそういう風に、何かというと賭け事というか、一種賭博的な精神があって、脚本を書くときも、これは当たるか、絶対当たるかっていうことをですね。
僕が脚本で教えられたことが三つあるんですね、先生から。脚本を書くことによって、お金が儲かる、いいギャラがもらえる。あるいは、お金はそんなに大したことない、脚本料は大したことないけど、これで名前が上がる。うん、つまり、映画がとっても有名になって、それで賞とかもらってですね、脚本家としての名前が上がる。三番目は当たる、当たるものを書くと。この三つ、この三つのうちのどれか一つでないと、脚本を書くに値しないよっていう風に言われておりました。

石飛:黒澤監督に、橋本さん「お前は、博打打ちだな」って言われたっていう話を時々されてましたよね。それがすごく嬉しかったんだと思うんですけど、楽しそうに話しておられました。

中島:博打打ちって呼ばれることはね、誇りだったと思うんですよ、先生の。で博打を打って、観客を沸かせて、当てる、興行的に当てるということはもう、脚本書く以上やらにゃいかんと、いう風に言っておられました。

石飛:また渡辺さんに無茶振りしますけど、博打と映画作りについてお願いします(笑)。

渡辺:さっき中島先生が言われた三つのことっていうのは、今の映画にも本来はすごく大切なことなので、僕たち若手を含めたものたちが実際心してやっていかなきゃいけないことなのかなっていう風に本当に思いますね。中々今、日本映画がどっちかというと当たる作品が少なくなって来ているような印象があるので。ひとりの橋本忍さんという脚本家の方からこれだけの作品が生まれるっていうのはやっぱり、ものすごく、そういうことを意識して作品を作っているからだという風に感じます。

石飛:榎田さんはどうですかね、博打って。

榎田:僕は人生そのものが博打みたいなもんなんですけれど(笑)。さっき当たるっていう言葉って改めて考えるとすごいことだなって思って。当てるってことはまあ、狙って、当てる。当たるっていうのは、まあなんか当たっちゃうと。何に当たるんだろうってずっと考えてたんですよね。博打っていうものは、結局先が見えないから、だから、これが良いんだって思ってやっていても、当たらない場合もありますよね。橋本先生の場合は、当たる率と言いますかね、実際のコストとかリクープとか僕は調べてないからわからないんですけれども、中島先生がさっき仰った、三番目、当たるっていう言葉を、この前このお話を伺ったとき「人が喜ぶものを作る」っておっしゃっていたんですよね。そうか、当たるって人の喜びに当てるんだって。映画見るとなんというか、ドラマもそうですけど、俺もっとしっかりしよう、とかもっと世界よくしなきゃ、とか個人の力ではどうしようもないことを自分の中で鼓舞してくれる。そこに当たるんですよね、結局。だから、そこに当たると、ヒットということになるのかなと。そういう風に今、ちょうどぼーっとしている時にぱっと指されて、昔の学校の先生みたいだなと思いましたね(笑)。そんな感じですね。

石飛:ありがとうございます。高橋さんは、橋本さんのお話の中で興行的なものっていうのは、何か覚えてらっしゃることあります?

高橋:先生は「俺は芸術家じゃない、職人なんだ」という言葉をよく我々に言われたりしたのですけど。でも黒澤さんのグループにしても、野村芳太郎さんのグループにしても、一番知的なライターは、橋本先生のような気がしています。共同シナリオライターのお名前見てもね。だから、黒澤映画が面白くなくなったのは、橋本さんのあの知性がなくなったからじゃないかなっていうイメージすごく持つんだけど。本人は「知性は、芸術家・黒澤で、俺は職人だから、俺の方が、客を呼ぶ映画が作れるよ」っていうような自負があるような気がしてるんだけど。でも実際は、黒澤さんよりも知性が豊富で、才能もあったのは橋本さんで、橋本さんがいなくなった黒澤映画は面白くなくなってるんじゃないかなっていう、気持ちを持つんですけどね。

石飛:大胆なご発言で、ありがとうございます。中島さん、今の高橋さんの問題発言については。

中島:確かにそうですね、橋本さんが抜けた後の黒澤映画はぱっとしないですよね。ぼくは知性というか、やっぱり博打性、賭博性がなくなったと思うんですよ、黒澤さんの映画の中に。橋本さんが抜けてからね。小国さんも年取ってしまったし。最後に井出雅人さんがつきあってらしたけど。ノンちゃん(野上照代さん)に言わせると、あんなもん全然頼りにならなかったよみたいな。全部黒澤さんが自分で書いたんだよみたいなことを言ってました。とにかく橋本先生は黒澤さんに頼りにされて。だからぼくは知性で力になったというか、むしろこう、賭博的な、興行的な勘みたいなもので、黒澤さんを助けていたんじゃないかと。そういう風に思いますね。それは高橋さんがさっき仰ったように浪花節的なもの、親子関係であったり、師弟関係であったり、なんか黒澤さんは特に師弟関係が好きですよね。男同士の友情とか。そういう風な人の琴線に強く触れるもの、そういうものをガーンと中心に据えて、そして当てていくと。こういう姿勢が先生にはおありになって。それで黒澤さんも非常に助けられたという風にぼくは思います。

石飛:橋本さん以外の黒澤映画がどうかはちょっと置いておいてですね『七人の侍』や『羅生門』『生きる』って最も黒澤映画の頂点といってもこれは誰も否定できないというか、異論はないのではないかと思いますよね。これは野上照代さんが仰ってたんですけど、黒澤さんって自分でも脚本とてもお上手で、素晴らしい脚本家でもありますけど、大抵の場合は、グループで、集団で作られておりますけれども、その中で橋本さんだけが、確か「だけ」だと仰ってたように思いますけれど、企画の段階から最後仕上げまでずっと一緒に作られてたのは、橋本さんだけだということを仰っていたような気がしますけど。どうでしたかね、中島さん。

中島:『七人の侍』にしても、しょっぱなは浪人の、侍の一日とかね、それから浪人がどういう生活してる、古い書物とかそれを参考にして橋本先生一人で書き始めて、一本二本も、無駄な本を書いたりして「いや、これじゃダメだ」みたいなことで、百姓のために浪人が戦うっていう、こういう話にしようっていう風に段々に的を絞るまで、本当に先生一人で黒澤さんにいじめられたって言い方悪いけど、すごく骨折って、たどり着いた世界だと思いますね。その後で何人か小国さんとかなんかが入ってくるんですけれども、野上さんによると「一字も書かない人もいるんだよ、名前は並べてるけれど」と。旅館で飯食って酒食らって、小国さんなんか、意見言っただけであそこに名前が並んでるみたいな。そういう人もいて。ま、そういう人に比べたら橋本先生はもう、本当に縁の下の力持ち、最初から最後まで全部自分で肉体労働して書いて、それで黒澤さんを支えていたということだと思います。

石飛:脚本家に名前を連ねている人たちの中でも役割があって、ある先生、これは飲み会の席では実名が出てましたけど(笑)、ただ「先生、素晴らしいですね!」って褒め称える役の方とか、ただ清書、字が綺麗で清書する方とか、そういったような方も脚本の中で名前を連ねてるとおっしゃっていて、それはもう大爆笑でした。ここでは実名は伏せますが(笑)。

中島:あの『首』って映画があるんですが、あの腐った、墓から掘り起こした腐った首をですね、リュックにの中に詰め込んで、満員列車の中になって、そこに警官が来て「何を持ってんだ!」て問い詰められるシーンがあるんですね。「いやあ、これは首ですよ。人間の生首ですよ」って、平気で言っちゃう。で、まさか!て誰も信じない。だけど臭いからとにかく途中で降りて、それもう捨てろみたいなこと言われて、それだけで済んじゃったみたいな。つまりその「まさか!」本当のこと言ってもまさかってことを仕掛けたりする。それは黒澤さんがよくやる手でね、それを『首』の時は橋本先生がね「黒澤さんから盗んだんだよ」って、言われてたんですが。本当にそういう意味で良い師弟関係の中に置かれた二人だったと思いますね。

石飛:あの『首』を生首持っているところに職務質問を受けるっていうのはね「生首ですよ」っていうのは博打ですよね。一か八かですよね。いやあ、あれは素晴らしいシーンだなと思います。博打で言いますと『砂の器』の最後、さっきもお話出てた、最後の40分ぐらいが父と子の旅と、捜査会議と、演奏会を三つ、カットバックで繋いでいくって言うのを思いつかれた時は、橋本さんが「マクリ一発が決まった!」って言う風に仰ってまして。マクリとは何かと言うと、競輪用語で、競輪をご存知の方は分かるかと思いますが、マクリ一発って言うのは、競輪でバックって呼ばれるトラックを何周かするんですけど、ずーっと一番どん尻を走ってて最後の一周で全部抜いて、一着になるって言う、決まるとものすごく派手でカッコいいんですけど、ほとんど滅多に決まらないっていう美しい、走法なんですけど。そのマクリ一発が決まったっていう風に橋本さん仰ってて、なるほどなあって。「これほど綺麗に決まったことがない」とご自分でも仰っていました。「ま、マクリってのは滅多に決まらないから、ここで使ってしまったんだな」と。「俺のマクリはこれで使ってしまったから、もうないかもしれないなと思ってちょっと寂しかったんだよな」という話を亡くなる4日前に仰っていたのがすごく印象に残っております。
博打打ちっていうのは何かなって思うと、脚本でいう博打って外連味――派手な仕掛――のことかなと思ったりもするんですけど、どうでしょうかね。もう一回また渡辺さんに振ってみようかな。

渡辺:僕がさっき首の話を聞いている時に思ったのは『隠し砦の三悪人』。この関所をどうやって乗り越えるかって時に、沢山金を積んだ馬から一本金の入った棒を取って「こんなもの見つけたんだ。褒美をくれ、褒美をくれ」っていうそのエキセントリックさみたいなものは、映画の面白さの醍醐味だと思います。

中島:あれは小国さんがね、言い出したの。小国英雄さんていう、黒澤さんの脚本家のメンバーがいらして、一番長老です。橋本さんはいつも、小国旦那って呼んでましたね。今渡辺さんが仰った金の延べ棒の話は「ああそこは、金の延べ棒持ってる、っていやあいいんだよ」って小国さんが言って「ああそうだよ」って言って、みんなそれに賛同して作った。

石飛:他に橋本さんの脚本の特徴みたいなものがあったら、中島さん。

中島:まあさっき喋った。もうそれに尽きるんで。そればっかりじゃないと思いますよ、もちろん。そうやって、不条理に立ち向かう。いじめ追い詰め追い詰め、追い詰めていく。主人公がそして最後に狂気になって、敵に立ち向かっていくっていう風な、そういうパターンもありますが、そればっかりじゃなくて『南の風と波』というのもあるし、これは自然と人間というね、大きなテーマ、映画によって様々なテーマでお書きになっていると思います。市川町に来てよく分かったんですけど、関西の田舎ですよね。で、僕も四国の田舎で育ったもんですから、地方のローカルなもの、結構好きだったと思いますね。脚本家としては、かなり範囲の広い方だったという風に思いますけどね。

石飛:橋本さんのお人柄みたいなことも、中島さん、高橋さんよくご存知の方にお伺いしたいんですけど。僕は2005年からですから、80代半ばからのお付き合いで、まあ、こちらは新聞記者として行ってるから、少しよそ行きな感じで、すごい優しいところしか見たことがないんですけど、結構怖いという風に伺ってるんですけど、どうでしょうか?

中島:いやあ怖かったですよ。叱られると本当にとことん叱りますからね。それからパッと笑うんです。憎らしいねえ。散々やり込めといてねえ、それからニカっと笑うから。またこの笑顔が素晴らしいでしょう。だから救われまして。それからあとはさっき言ったような律儀さ。職人的な律儀さがおありになる。
「まあ脚本家はね、中島くん、我が儘な下宿人で良いんだよ、家庭では」というようなことをよく言っていました。「だからあんまり家庭の些事にね、頭突っ込むな。それはあんまりね、脚本書くに当たって役に立たないものだから、そういうことは女房に任しとけば良いんだよ。自分はね、我が儘な下宿人。それでね、良いと思うよ」っていう風なことをしきりに仰っていました。その通りにしたら大失敗いたしました(笑)。

石飛:高橋さんのご存知な橋本さんはどんな?

高橋:よく、相談するんですね。一人で決めないで。例えば「記念館の話があるんだけど、作って良いのか疑問なんだけど」って。娘さんが「やめた方がいいわよ」って反対するんですよね。娘さんは「もうお年だし、また色んな問題が出てくると思うんで、私たちそれに付き合うの本当に嫌だわ」って言うことで「お父さんいいじゃない、そんな記念館なくっても」って。「あ、なくてもいいか」ってね。
僕は困るからね、仕事でもあるし。「先生やっぱり作らないとまずいですよ。シナリオライターの記念館はないんですから。小さくてもあるべきでしょう、そこから一つ一つまた、ステップ踏んで大きくしていくってこともありうるんだから。ぜひ、先生、この話に乗りましょう」ってことで、乗っていただいて。乗っていただいたのが幸いで「じゃあ、全部持っていけ」って言うことになって、全部持って来ていますが、ただ、書簡類だけ、プライバシー関係の書簡類だけは、これは持っていくなと。これは燃やすんだからと言って。持ってこれなかったのは、残念ですけどね。まだあるかもわかんないから。もうご本人いらっしゃらないから、娘さんのところ行って、ちょっとまた見てこようかなと思うんですけどね。ただ『複眼の映像』にもありますように、一人で書くシナリオ、これは、共同執筆と違って、いきなり決定稿となってしまう。自分一人で仕上げたシナリオは、ライター先行型と仰っていますが、誰かが書いたシナリオを、みんな他のライターが見て直したり、良いものにしていくっていう、そういうスキルアップして行くっていうか、ブラシアップして行くっていうことで、複数のシナリオライターが協力して完成に至るっていうシナリオの書き方が、この『複眼の映像』のタイトルに集約されているかと思うんですけれども。そういう意味では、結構細かいことでも、考えを訊かれ、相談うけましたね。それが結果的には良いことになってますね。

石飛:怖かったりしたことはありますか?

高橋:いやあ、僕の場合はあまり怖いっていうのはなかった。ただ「先生お好きなものは?」って聞くと「お前高知だろう?カツオのタタキが好きでね」って言うんです。それをちゃんとお送りしていました(笑)。

石飛:鰻もお好きだったんですよね?あの、鰻とか甘いものとか。

中島:15日ですか?あなたが行かれたのは。野上さんと石飛さんと二人でいかれた時。僕は7月15日は連絡受けていたのに行けなくて、葉山で海水浴してまして。その時に地元の和菓子屋さんがあったんで「あ、これ先生に送ろう」と思って、和菓子屋さんから宅配で直送して頂いて。そしたら16日に着いたんですね、橋本家に。それで、亡くなった後であのお菓子着いたかどうかって思って。「あ、あれね。お父さん美味しいって食べたわよ」って(長女の)綾さんが言って、僕は本当になんか嬉しくてね。救われたような気持ちになりましたよ。「ああ、食べてくれたんだ。先生は」と思って。甘いもの結構お好きでした。

石飛:4月に100歳のお誕生日のお祝いをごく少数の方々でされた時にケーキを中島さん買っていかれてましたよね。ロウソクをふっと吹き消してね、とてもお元気で楽しそうでしたよね。その時にいろんなお話をされていたんですけど、今、毎日小説を書いているんだと。『天武の夢』っていう天武天皇と天智天皇の話で、もう第一回が雑誌『オール讀物』にだいぶ前に載って、そこから今2000枚ぐらいになってるんだっていうお話をされてて。毎日、ワープロ――橋本さん、パソコンじゃなくてワープロを使っておられたんですけど――毎日ワープロに向かっているんだと。年取ると、他にやることがないからそれが健康だし、楽しいと仰ってて。そのことがすごくね、ずっとさっきの話じゃないんですけど、最後まで作っておられて。

中島:自叙伝を書くとか仰ったことあったんじゃないでしょうかね?「まあ今の仕事をちょっと置いといて、…自叙伝を書きたい。そこにはね、最後に付き合った三人の女が出てくるんだよ、中島くん」て言うから「ええ!すごい素晴らしい。先生、もう、ぜひ楽しみにしてます」あの美貌だから、女性に惚れられないわけないですよね。ですから「先生、女にモテた話、少しは話してくださいよ」って言うんだけど、そりゃもう「良いんだ、良いんだよ!僕はそんなもんよりも、競輪に夢中だったから」と言ってごまかされましたけど。自叙伝を書かれたら、そこのとこ少しは出てくるんじゃないかって楽しみにしてたんだけど、書かれないで逝ってしまわれましたんで。本当に残念です。

石飛:後、太平洋戦争時代の話、映画の企画を話されておりまして。そのペルリュー島っていう激戦地のお話で、女性の将校みたいなのが主人公になるお話、物語だったんですけれども。それを「やれば当たると思うんだよ」「これならすぐできると思うんだよね」と仰ってて、そこに山田洋次監督もお弟子さんとして参加されていて、で「洋ちゃん、松竹に良いプロデューサー、誰かいないかね?」って仰って。洋次さんも悩まれて「うーん。そうですね。どうでしょう」とか言ってたら、今度は野上照代さんに「ノンちゃん東宝はどうだ?東宝にはプロデューサーいないのかね?」仰ったりしていて。100歳のお誕生日の時にも次の映画を作ろうとしていて。だから、60代、70代、80代、90代が最高なら、100歳ではもっとすごいものがきっとできると思われていたんではないかなと思います。
ちょっと時間がなくなってまいりましたけれども、せっかく市川町で開いているシンポジウムなので、この橋本さんのレガシーをこの地域にどんな風に残していくべきか、どんなふうに次の世代に伝えていくべきか、というようなことで何かお考えがあれば伺いたいのですが、記念館を作られた高橋さん、どうでしょうか?今後の橋本さんをどんなふうに、我々は橋本さんのお仕事をどんな風に継承し、伝えていくかみたいなことでなにかあれば。

高橋:そうですね。一つは、記念館がこれまで橋本先生から寄贈された資料の検証ですね。先ほども言いました『複眼の映像』でいろんな方々が一つの作品を書かれているんですね。シナリオ断片も肉筆で、いろんな書体の断片があるんですよ。これ黒澤さんのかな。これ山田洋次さんなのかな。中島先生なのかな。国広さんなのかなって。いろんな方々が関わっているんで、必ずしも先生だけの生原稿ではないんで、それは作品の成立過程を知るためにも、研究の素材になるので、ちゃんと整理、検証した方が良いかなと思います。
後、先生は人間関係をすごく大事にしているので、その辺、この播但地方の方々の人柄かなと思うんだけど、例えば伊丹万作との出会いで黒澤監督や野上照代さんたちとの出会いがあって、そこからまた黒澤さんの助監督だった野村芳太郎さん、またその関係の森谷司郎さんとか。いろんな方々との繋がりが、橋本忍という人物を押し上げ、育てていった。もともと全くの他人が、たまたま知人になってさらに、友人となって、それがさらに一生の仕事の盟友に発展し、社会における自己の可能性が無限に広がっていく。橋本先生をそうさせたものは一体何だろうかと考えると、精神世界っていうか、その土壌となる風土的豊かさ、力強さにあるのではないかと思うのです。ですから橋本忍という人間性を育んできた市川という風土の検証、見直しを今後とも継承していく必要があると思います。

石飛:ありがとうございます。榎田さん、いかがでしょうか?

榎田:僕は昨年、市川町の役場の人たちにも話したんですけども、先ほどのお話の通りで、シナリオ力、つまり人間がどう動いて、どういう気持ちになるのかっていうことまで考えて暮らせる、仕事ができる人が増えれば、もっと世の中良くなるんじゃないかって思うんですよね。なので(市川町は)せっかく橋本先生が生まれたところなので、シナリオを学べる場所がここに生まれたら良いんじゃないかな、という風に僕は思うんです。そのシナリオは、映画やドラマのシナリオを描く、いわゆる橋本先生や、中島先生のような、プロフェッショナルなシナリオライターを育てるってこともひとつあって。もう一つはやっぱり、いろんな地域の企業の人とか、行政の人なんかもそこに来て、シナリオっていうものは何なんだ、人間っていうのは何なんだってことを学ぶような。そういうことを混ざって出来るような環境があったら良いなっていう風に僕は思っています。

石飛:ぜひ、町の方々にお願いしたいなと思います。じゃあ、そろそろ締めの言葉を頂こうと思いますが、渡辺さんと中島さんに頂きたいなと思います。渡辺さん言い残したことや、まとめたいことなどお願いします。

渡辺:まとめたいことですか。ちょっと最近橋本さんのニュースを調べたら、面白いニュースが出て来て。イギリスのBBCが選んだ史上最高の外国映画が最近出たんですが、その1位が『七人の侍』なんですね。2位が『自転車泥棒』っていう外国映画。3位が『東京物語』。4位が『羅生門』です。ベストテンの中に橋本忍さんが手がけたシナリオが2本も入っている。これはものすごいことです。209人の評論家の中に10人の日本人の評論家の方がいるんですけど、僕が面白いなと思ったのは、その10人の日本人の評論家は(橋本脚本作品を)選んでないらしいんですよ。おそらくむしろ外国人の方が、正当な評価ができているんじゃないかぐらい僕は思ってしまって。そういう意味では、僕たちの世代もそうですし、僕たちよりもっと若い世代もそうなんですけど、本当に優れた日本文化っていうのをもっと自ら理解して知らなければいけないなっていう風に思います。ここに集まっていただいた皆さんのように、映画が好きな方にも、それを若い人にも伝えていただくとかが、橋本さんの功績や作品を残す手段になるのではないかと思います。
僕さっき橋本忍さんの『人とシナリオ』っていうこの本をロビーで売ってたんで、すぐに買ってしまったんですけど、これ1,500円で売ってるんですけど、昔神保町で見かけた時9,000円で売ってたんです。ずっと絶版だった本が、1,500円で売ってたんで、興味があったらおそらく、ご購入された方が良いのではという風に思いました。

石飛:9,000円の時は買わなかったんですね(笑)。

渡辺:僕、でも4,500円ぐらいで買ったんですよね。で、これ1,500円で売ってたので速攻買いましたけどね。

石飛:お得だと思います。

渡辺:はい。素晴らしい本なので、ぜひ。あ、すみません、締めにならないですね。ぼくも若い世代の一人として、きちんと勉強して、どんどん橋本さんの作品を伝えていきたいなと思います。

石飛:ありがとうございます。中島さん、お願いします。

中島:橋本先生と僕とは資質が正反対で、僕が例えば木下恵介さんの弟子になったって、ちっとも面白くないんですね。それはちょっと似てるからだと思います。だから僕なんかがむしろ全く資質の違う、橋本忍先生のお弟子になったということは、逆にとっても役に立つということであって、そういうことはぼくの感謝の根元にあるわけですが。
とても気になることがあって、お亡くなりになるちょっと前、15日に石飛さんなんかが行かれた時も「中島には個別に言い残したいことがある」って仰って。後で娘さんの綾さんにも「お父さんね、中島さんに言い残したことがあるって言ってたわよ」って聞いたんですよ。ぼくはね、それを聞きたくって。最後の先生のぼくへの遺言を聞き逃してしまったと思って。それを言われないままに向こうの世界へ行かれてしまって。それが気がかりで残念でならない。ぼくの今の課題はそれを考え続けること、これから。と、そういう風に思っております。本当に先生には感謝しております。

石飛:野上さんによると、橋本さんの最後に伝えたいのは「酒を飲みすぎるなよ」っていうことだって仰ってましたね(笑)。

中島:ひょっとしたら「中島くん、あまり酒飲まない方がいいよ。頭ボケるからね」って、それかもしれませんねって、僕自身が野上さんにそう言ってた。でももっと何か違うんじゃないかという風に思っております。

石飛:ありがとうございます。無茶振りをたくさんしてしまって、申し訳ありませんでした。それなのにたくさん面白い話をいただいて。司会の私だけが拙くてすみませんでした。聞いていただいてありがとうございます。